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2012年10月21日

食べられるフォヌカポォ

今朝、NHKの二ユース深読みの特集で「若者の言葉」について取り上げていました。時間の関係で途中までしか見られなかったのですが、少し思ったことを書きます。

考えたいと思ったのは、ら抜き言葉についてです。
例えば「食べれる」はら抜き言葉で、本来は「食べられる」が正しい、ということになっています。
でも、ら抜き言葉も、文法的に考えて正しい部分があるんじゃないか、と思っています。


国語文法的に考えると、「食べる」という言葉は下一段活用です。「食べる」の未然形「食べ」と、可能・尊敬・受身・自発を表す助動詞の「れる・られる」が接続することにより、「食べ+られる」が完成します。

対して、「走る」と「走れる」の関係で考えると、こちらは別の動詞になります。「走れる」は、いわゆる可能動詞というもので、「走る」が五段活用、「走れる」は下一段活用です。国語文法的には可能動詞が作れるものは五段動詞のみです。「読む・読める」「飛ぶ・飛べる」「書く・書ける」はいずれも五段動詞と可能動詞の組み合わせです。
ちなみに「走る」に対して助動詞「れる・られる」を接続すると「走ら+れる」となります。

しかし、この「走られる」では、助動詞「れる・られる」の機能のうち、可能の意味では用いません。

受身「ライバルに走られてしまった。」
尊敬「師匠が走られた。」

という形で使います。なお、走られるの上で「自発」だといい例が思いつきませんでした。例えば他の動詞「思い出す」に対して「思い出さ+れる」だと「ふるさとのことが自然に思い出される」などの用法があります。


その上で、これを可能に使うとおかしくなるので、可能動詞を使うのです。

れる・られる「100mを10秒で走られる選手」
可能動詞「100mを10秒で走れる選手」

さて、ら抜き言葉に戻りましょう。
ら抜き言葉とされる「食べれる」は、下一段動詞を無理矢理に可能動詞化したものと考えられます。そのため、ら抜き言葉はもっぱら可能の意味で用いられます。
そして、助動詞「れる・られる」がついた時は可能・尊敬・受身・自発のうち、可能の意味以外で用いていると思います。

「プリキュアが食べられる(性的な意味で)」という例文を考えてみましょう。
これの主語はなんでしょうか?

一つはプリキュアが主語になり、「プリキュアが・食べられてしまう(性的な意味で)」という受身の文ですね。被害を受けている、という文です。

もう一つは拙者が主語になるパターンです。「拙者は、プリキュアのことを・性的な意味で・食べることができるでござるフォヌカポォ」という文です。



では、「プリキュア食べれないとかありえな〜い!」ではどうでしょうか。
こちらでは、ら抜き言葉を使っています。主語を考えると、ここでは「貴殿は」が適切でしょう。つまり、「貴殿はプリキュアを食べることができないとは、どういうことでござるかデュブフォ!」と、可能の意味でとれる文になります。
こちらの文では、受身の意味をとることができないので、助動詞を使った文よりも、誤解を生むことがない優れた文かもしれません。


こうして考えてみると、ら抜き言葉は、助動詞「れる・られる」の意味、可能・尊敬・受身・自発と、多彩にとれる言葉を少しでも限定して、伝わりやすくするために、可能を表す言葉として使われているのでしょう。
伝達の効率を上げる、誤解を防ぐという視点で考えると、五段動詞以外の可能動詞化……ら抜き言葉は、合理的な言葉であると考えることができます。


正しい日本語という絶対の基準は存在しないと思っています。
旧字体+旧かな遣いで表記するのが正しい日本語と言うのだ!という主張も存在しています。歴史的に考えると、ら抜き言葉に眉をしかめる人たちが想定する「正しい日本語」よりもさらに古いため、いわば「正しすぎる日本語」とでも呼べるものです。でも、それが正しい日本語だから使いなさい、という人は滅多にいないでしょう。

私の知っている人のなかに「すごい」人がいます。
曰く、すごいという言葉は「凄まじい」であり、「程度が甚だしいほどに酷い」という意味だと主張しています。そのため、「すごい台風」や「すごく悪いテストの点数」という使い方は問題なくとも、「すぐ美味しい、すごく美味しい」という使い方は間違っていると言うのです。だから程度がかけ離れていることを表現したいなら「すこぶる」を使うべきだと。だから「すぐ美味しい、すこぶる美味しい」と表現するべきだと言っていました。


アホかと。


これを聞いた時に「すごい」と思いました。おそらく、変化を認められない人なのでしょう。私には、「すごく美味しい」で通じなかった経験はありません。

変化の中にあって、使われてこその言葉なので、唯一「正しさ」があるとすれば、相手に伝わるかどうかだと思っています。
また先日の「自分語」の話にもつながってきますが、伝わらない言葉を使うのはただの自己満足です。

こういった背景まで考えてみると、ら抜き言葉は正しく伝えよう、れる・られるの曖昧な意味を少しでも減らして、相手に自分の意図をしっかり伝えよう、という創意工夫された言葉だと、私は考えます。
そのため、ら抜き言葉は「正しい日本語」と言えるのではないでしょうか。

以上、調べている最中に「しゃべれる」は、ら抜き言葉ではないことに驚いた翠でした。
またあした。
posted by 牧田 翠 at 01:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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