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2011年01月11日

チャレンジBタイガーマスク

時事問題を取り上げてみようかと思いました。
例のタイガーマスクによる寄付のお話。


タイガー寄付、70カ所超える ランドセル、現金、果物… (47NEWS)
虎の覆面姿も出た、タイガー運動42都道府県に (読売新聞)


これだけの寄付が集まり、心が温かくなるニュースなのですが、一方でこうした行為に対して「偽善」という評価が出ています。
偽善というのは、相手のためを思っての善行ではなく、自分の満足、利己心、虚栄心のために行う行為と定義しておきましょう。(Wikipedia→偽善)


個人的には、この偽善という感覚が昔から分かりません。
高校生の頃、友人がよく献血に行って「また偽善しちゃってるよ……最低だな……」とか自己嫌悪していたのを見て「???」となったのをよく覚えています。
おそらく「いいことをしてるはずなんだろうけど……結局自分の自己満足なんだろうなぁ」ということに後ろめたさを感じる感覚なのでしょう。
また、他人に対して偽善と言い切れるのは、「お前のは相手の気持ちを考えた行為じゃない。自己満足のためにやってる悪なんだよ!」という糾弾なのでしょう。
これもよくわかりません。

私は「いや、でもいいことしてるからいいじゃん」と単純に考えてしまいます。
そういう後ろめたさを感じる人間に対して「だって綺麗事が一番いいんだから。」の言葉を贈りたくなるくらいです。

結局のところ、偽善という感覚は、人間の欲望は汚いモノである、という前提に基づいているのだと思います。いわゆる性悪説です。
他人を食い物にすることが人間の本質で、人のために何かをするのは、裏に悪い考えがあるからだ、と。
だから客観的にいいことをしているように思えても、偽善と言わずにはいられないのでしょう。自分のことを偽善者と言うのも同じく性悪説に基づいていると考えられます。

そういう意味では、偽善という概念は、善悪判断のメタ構造になっていて、二極構造で捕らえきれない面白い概念だと思います。
ヒーローは市民の平和を守るために戦うけど、実は偽善ではないか?みたいな疑問が提示されることは時々ありますけれど、この辺りの感覚は本当に面白いと思います。

でも、偽善という言葉を使って何かを批判したような気になるのは生産的ではないかな、と思います。
今回のタイガーマスクの話で考えると、「偽善だ!」と批判しても意味はなく「事前に子どもの数を聞いて贈るべきだ!」という批判ならば次に繋がるので良い、というところでしょうか。

なんやら格好良く「偽善」と説いても、それは性悪説の人にしか響かない言葉なのだろうな、と思います。


性悪説/性善説については、最近の"二次元規制条例"絡みで言いたいこともあるのですが、それはまた後日と言うことで。
適当に思いつきを書きましたが、こんなところで。


posted by 牧田 翠 at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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